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第五話 告げなかった命

作者: 月歌
last update 公開日: 2026-08-10 20:22:20

沙耶が黒崎邸へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。

怜司はまだ美玲のそばにいる。

広い屋敷は、ひどく静まり返っていた。

沙耶は食堂へ入り、朝、自分で離婚届をしまった引き出しを開けた。

白い封筒を取り出し、椅子へ腰を下ろす。

中から離婚届を抜き出すと、妻の氏名を書く欄だけが、まだ空白のまま残されていた。

病院では、明日署名すると言った。

けれど、もう一晩迷ったところで答えが変わるとは思えなかった。

沙耶はペンを取る。

――黒崎。

三年前、喜びながら手に入れた姓だった。

初めてこの名字を名乗ったとき、自分はようやく怜司の家族になれたのだと思った。

愛されていなくてもいい。

最初は形だけでもいい。

夫婦として時間を重ねれば、いつか。

そんな願いまで、この名字の中に詰め込んでいた。

ペン先を紙へ下ろそうとして、指が止まる。

ここに名前を書けば、本当に終わる。

怜司の妻ではなくなる。

この家へ帰ることも、彼の隣で朝を迎えることも、もうない。

沙耶は腹部へそっと手を添えた。

この子が生まれても、三人で暮らす未来は来ない。

胸が締めつけられた。

それでも、沙耶はゆっくりと文字を書いた。

黒崎沙耶。

書き慣れたはずの名前が、ひどく遠く見えた。

署名を終える。

左手の結婚指輪を外すと、指の根元に白い痕が残った。

三年間、ほとんど外したことのない指輪。

なくなった途端、そこだけが妙に頼りなく感じられる。

沙耶は指輪を離婚届の上へ置いた。

そのとき、玄関の扉が開く音がした。

しばらくして、怜司が食堂へ入ってくる。

彼は沙耶の前に置かれた離婚届と指輪を見て、足を止めた。

「署名したのか」

「はい」

怜司は近づき、離婚届を手に取った。

沙耶の署名へ視線を落とす。

すぐに封筒へ戻すと思った。

けれど、怜司はそのまま紙を持っていた。

「本当に、これでいいのか」

沙耶は顔を上げた。

一瞬だけ、胸が揺れた。

何を聞いているのだろう。

離婚を望んだのは怜司だ。

それなのに、その声音にはわずかな迷いがあるように聞こえた。

もし今。

やはり離婚はやめる、と言われたら。

ほんの一瞬だけ、そんな愚かな期待が胸をよぎった。

「どういう意味ですか」

「昨日まで、おまえはこの結婚を続けるつもりだった」

「昨日までの私は、美玲さんが戻ったことも、あなたが離婚を望んでいることも知りませんでした」

「それだけで、すぐに決められるものなのか」

怜司の視線が、署名された離婚届へ落ちる。

沙耶は黙って彼を見た。

何かを言ってほしかった。

今まで一度も聞けなかった言葉を。

自分を手放したくないと。

ほんの少しでも。

けれど、怜司が次に口にしたのは、まったく別のことだった。

「両社の関係まで終わるわけではない」

沙耶の胸に残っていた期待が、静かに消えた。

「……何の話をしているのですか」

「高瀬メディカルとの提携は維持する。おまえが心配しているような不利益は出さない」

また、会社だった。

結局、この人は何も分かっていない。

どうやら怜司には、沙耶が離婚を受け入れたのは、高瀬が守られると分かったからだと映っているらしい。

三年間の結婚が終わることより、会社との関係が切れることを恐れている女だと。

「私は、高瀬メディカルのためだけにあなたと結婚したのではありません」

怜司の眉がわずかに動く。

「では、なぜだ」

その問いに、沙耶は笑いそうになった。

三年間そばにいても、分からなかったのだ。

毎朝見送ったことも。

帰りの遅い夜に、先に眠れず待っていたことも。

怜司の好みを一つずつ覚えたことも。

求められるたび、嬉しさを隠しながら受け入れたことも。

全部、妻だからしているのだと思っていたのだろう。

「私は、あなたを愛していました」

声にした瞬間、不思議なくらい胸の奥が静かになった。

怜司は何も言わない。

左右で色の違う瞳が、わずかに揺れたように見えた。

「結婚する前から、ずっと」

一度言ってしまえば、もう隠す必要はなかった。

「だから結婚しました。最初は愛されなくても、一緒に暮らしていれば、いつか少しくらい私を必要としてくれるかもしれないと思っていました」

「沙耶……」

「でも、もう終わりです」

その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。

バッグの中には、超音波写真が入っている。

今なら、まだ言える。

あなたの子供がいる。

昨日から何度も、その言葉を胸の中で繰り返してきた。

告げれば、怜司は離婚届を破るかもしれない。

責任から逃げる男ではない。

きっと、美玲との未来より、この子への責任を選ぼうとする。

その可能性を思うだけで、胸のどこかが縋りつきたくなる。

けれど、それで得られるのは愛ではない。

子供がいるから残った夫。

心では別の女を見ながら、父親として隣にいる男。

そんな人を毎日見ながら、自分は平気でいられるのだろうか。

そしていつか、この子まで、自分が両親をつなぎ止めたのだと思うようになったら。

沙耶には耐えられなかった。

「明日の朝、ここを出ます」

「急ぐ必要はない」

「あります」

怜司が何かを言いかける。

沙耶はその続きを待たなかった。

「都合のいいときだけ、夫のように振る舞わないでください」

怜司の表情が歪んだ。

以前の沙耶なら、それを見ただけで自分の言葉を後悔しただろう。

傷つけたくなかった。

嫌われたくなかった。

だからいつも、自分のほうが飲み込んできた。

けれど、もう彼の痛みまで引き受ける必要はない。

沙耶は立ち上がった。

「おやすみなさい」

食堂を出る。

廊下を数歩進んだところで、腹の奥に鈍い痛みが走った。

沙耶は足を止め、壁へ手をつく。

もう片方の手を、そっと腹部へ添えた。

痛みはすぐには消えなかった。

一瞬、怜司を呼ぼうかと思った。

その考えに、自分で胸が苦しくなる。

夫ではなくなる人を、まだ頼ろうとしている。

沙耶は唇を噛み、ゆっくり息を吐いた。

それでも振り返らなかった。

言えなかったのではない。

言わなかったのだ。

この子を、愛のない結婚をつなぎ止める鎖にはしたくなかった。

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